またJELC式文委員の松本義宣牧師にお願いし、家庭での主日礼拝の文案(MS-Wordファイル)を作成いたしましたのでご利用ください。
各教会で、み言葉が分かち合われること、そこに魂の配慮があることを信じて、共にこの時を大切に過ごしていきたいと願います。
2020年4月11日 聖土曜日の夕に
牧会書簡
日本福音ルーテル教会
総会議長 大柴 譲治
教職、信徒のみなさまイースターおめでとうございます。
日本福音ルーテル教会の総会議長として、これまでいくつかの「注意喚起」や「議長談話」をお送りしてきました。各教会が誠実に対応してくださっていることを感謝いたします。
一連の出来事の中において、様々な声を「聴く」ことから改めて教えられることは、日本福音ルーテル教会は聖書のみ言葉の上に立つ教会であるということです。日本福音ルーテル教会に属する信徒と教職は、誰一人として礼拝を律法的な義務としては理解していないということです。それは第一義的に「神による奉仕」です。むしろ私たちは、日々、喜んで礼拝に集う群れであるが故に、今、この誰も経験したことのない状況の中で、すべての者がもがき、苦しんでいます。理性ではこの事態において適切な対応をしたいと願いつつ、信仰においてはこれでいいのだろうかという迷いを抱えています。時が経つことの中で、神によって明らかとなることでしょう。
この時に、ルターが1527年にヨーロッパ全土に感染が拡大したペストの猛威がヴィッテンベルグを襲った時の対応は私たちに大切な示唆を与えてくれます。ルターはフリードリヒ選帝侯の町からの避難の命令を拒否して、病人のケアのために残ります。この時に『死の災禍から逃れるべきか』という文章を残しています(キリスト教新聞2020.04.11発行 吉田隆氏の翻訳から引用)。
この手紙の要点は以下の通りです。
(1)困難な時にこそ神の召しに忠実であれ
ルターはまず、牧師たちに、命の危険にさらされている時こそ、牧師を含む他者に仕える召しのある者は、持ち場を離れるべきではないと戒めています。「人々が死んでいく時に最も必要とするのは、御言葉と聖礼典によって強く慰め、信仰によって死に打ち勝たせる霊的奉仕だからである」とルターは語ります。
(2)不必要なリスクを避けよ
他方においてルターは、死の危険や災禍に対してあまりにも拙速かつ向こう見ずな危険を冒すことにつても戒めています。それは神を信頼することではなく、試みることである。むしろ理性を用いて、次のことを考えよと語ります。「私はまず神がお守りくださるようにと祈る。そうして後、私は消毒をし、空気を入れ替え、薬を用意し、それを用いる。行く必要のない場所や人を避けて、自ら感染したり他者に移さないようにする。私の不注意で、彼らの死を招かないためである」。
私たちは使徒信条において「聖なる公同の教会を信ず」と告白していること感謝します。一人自宅で礼拝を守っていても、それは天地を貫く「公同の教会」につながる主の日の礼拝です。日本福音ルーテル教会は127年の歴史の中で、この礼拝の公同性/共同性を大切にしてきました。ルターが一人で祈る時も世界の教会が共に祈っていることを忘れてはならないと語る通り、礼拝に集うことの喜びを確認しつつ、「日々の悔い改め」の中にある「公同の礼拝」、「霊とまこととをもってなす礼拝」こそ、神さまが求めておられる礼拝であることを改めて心に留め、祈りつつ、共にこの危急の「時」を乗り超えてゆきたいと願っています。皆さまに平安をお祈りします。
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